美術館・古文書館

なぜ二階堂邸(武家屋敷)が美術館に?

美術館設立の経緯
2014年7月 東京武蔵野にて、アトリエを持ち活動していた中井勝郎が79歳で生涯を全うした。
夫人である中井トミは勝郎の足跡と作品を後世に残したく考え、トミの故郷である出水にて美術館を設立することにした。
2015年4月 地元不動産会社の計らいで、旧二階堂邸が入手でき、ほとんど廃嘘寸前だった屋敷の内部を大幅改装して開設準備を整えた。
2016年3月 荒れ放題の庭・山林の整備などの困難もあったが、地元のボランティアの皆さんの多大なる協力を得て、オープンに至る。

 

二階堂邸の特徴(詳細)
西郷隆盛ゆかりの地
発端いきさつ
旧二階堂家を購入するにあたり、2015年2月に屋敷内を下見したが、廃嘘寸前の部屋に、陸軍大将近衛提督西郷隆盛様御宿泊・海軍大将西郷従道様御宿泊・今生内親王‥様御滞在の看板(まな板くらいの大きさ・宿札というらしい。)数対の掛け軸があり、客間に西郷隆盛の掛け軸、東郷元帥の額、小野道風(?)の掛け軸、狩野洞春の絵(?)が飾ってあった。持ち主に問うたところ、西郷兄弟が定宿にしていたとのことだった。昨年末に宗像観光協会会長(当時)より、出水での西郷さんアピールの企画を提案いただき、前述の西郷さん宿泊の証拠物についての検証を求められ、調査したところ、客間と蔵の奥に所蔵されていた掛け軸などは、一部が蔵の中にあり、また一部を不動産会社が保管しているが、宿札については、ごみとして処理されていた。そこで、持ち主から不動産か一部を借り受、当家の所蔵品とともに、展示するに至った次第である。おりしくも、昨年末に、二階堂氏の親戚で以前当屋敷に住んでいた人の訪問を受け、西郷さんの経緯につき聞いたところ、家主のおばあちゃんは、西郷兄弟が定宿にしていたことを大変自慢しており、当家で書いてもらった書を大切にしていたという話をいただいた。宿札もあるはずといわれたが、ごみとして逸失したと答えると大変残念がっておられた。以上が西郷ゆかりの宿の伝承と検証である。このことは、西郷さんの歴史考証として、鹿児島市内、仙台や日当山など他の西郷ゆかりの地とにたいして比較しても、まったく遜色がないどころか、出水のほうが歴史的意義も深いと判断して、西郷ゆかりの地として全面的に周知知らしめることとした。

 西郷隆盛  西郷従道

二階堂邸は西郷氏が兄弟で宿泊したという極めて希少な場所である.おそらく西郷等の生家以外には現存しないと思われる。隆盛は言わずもがなであるが、西郷隆盛の弟でありながら、兄とは袂を分かち、大久保側につき、明治政府で海軍元帥にまで上り詰めた従道は、その行動とは裏腹に兄を大変尊敬し、慕っており、隆盛の自決後大変落胆し、明治天皇らからの総理大臣抜擢も断ったということである。
その数奇な生涯と激動の時代背景からいつか脚光を浴びる時が来るはずである。
一部で当邸の西郷の書の真贋が話題になっているが、当邸は書の存在よりも西郷隆盛が宿泊したそのときそのままの環境が160年前のまま現存していることが最も重要であると考える。
訪れる観覧者には、当時のままで西郷の維新ロマンの情景を味わえる場所として楽しんでもらいたい。西郷の書、絵などはそのための検証物であり、いまはやりのお宝真贋ブームとは距離を置きたい。
なお、真贋については、専門の鑑定家(南州顕彰会:川内支部)に調査してもらい、真物と確認されている。
偽物という風評が飛び交い、提供者が立腹している現状もあり、提供者にも配慮し、本物鑑定済ということで今後周知願いたい。

書のうち、2対は、明治7~8年ころ(駄馬~)、明治10年以降(白髪~)
の近世作品であるが、七言絶句(身世~)の書は江戸時代のもので、西郷隆盛が若い
時の作品であり、めったに現存しない一品であーり、ここでしか見られないものである
ということ。

客間と、そこから眺める薩摩庭園は、西郷が見た景色と同一である。

二階堂家略譜 西郷との接点

始祖1150年頃
相州鎌倉 二階堂遠江守維遠(とおみのもり これとう)従五位
源の頼朝の熔印(妾の子)とされる惟宗忠久(のちの島津家)の家来(直参)

薩摩移住 1185年頃
惟宗忠久(島津家始祖)とともに薩摩に赴任、
最初は田布施(日置市)付近に居住薩摩二階堂家の始祖となる。
奥州島津家の直参となり、 のちに蒲生(姶良市)に定住。

出水移住 1593年(文禄2年)
秀吉による挑戦出兵の際の薩州島津家の不戦行為により、領地召上になり、出水麓地区 が石田三成管理領となった際に島津義弘の命により、蒲生より薩州出水麓に移住    薩州二階堂家創設
1599年とされる、出水麓武家屋敷群の創設よりも早い。石高75石 竹添・武宮・別所・税所氏(1610年頃)より早く着任している。
朝鮮出兵の際の秀吉への不首尾で、二階堂家の属する麓地域で3名の切腹があったが、その個人をしのんで、3名の者を同家の詞に奉納したという記録がある。

そののち家督
行伸
行森
行基(竹ノ内家縁組)出水勤曖役 1682没
行年(税所氏縁組)       1713没
行佐(竹添氏縁組) 出水勤組頭役 1722没
行参(志賀氏縁組) 出水勤組頭・曖役 1763没
行生(養子・高尾野税所氏より) 出水勤組頭・曖役1788(天明8年)没
行察 (二宮氏縁組)担水組頭役 1835年(天保6年)没
行聡 (荒田氏縁組)出水勤組頭・郷士年寄1874年(明治7年)没
行寛(養子・出水町田家)1858年家督
出水勤組頭役・曖役・郷士年寄役
1854年 江戸御式台御藩勤務(参勤交代)
西郷隆盛 泊 1月24日  同行出立(江戸へ)
1856年 長女が竹添家と縁組
1857年9月21日 西郷隆盛 泊
1858年 安政5年 6月4・5日 西郷隆盛 泊
6月12日 西郷隆盛 泊
10月4・5日 西郷隆盛 泊
1859年 安政6年
10月6日 大火 類焼
当家は郷士の学問所と上京の際の藩士の駐留地であるので、家がどうしても必要であるので、飲食を薄くし、無駄を省き、数々立てた手柄の褒美である、鎧兜、赤胴などを売り払
い、急いで家を新築し、家財道具を整えた。今後子々孫々に対して、家を守り、無駄な調度物は持たないように控をして、悪魔祓いをした。≪行寛日記より)
その際、島津家より75両の新築費を賜ったとの記録がある。
また、家の材料は、阿久根の材木豪商から、大きな屋久杉を買い付け天井などを構築したとされている。
1862年 3月15日 西郷隆盛 
1863年 9月 江戸警護勤務
64年 5月帰国
1865年 1月12・13日 西郷隆盛 泊
3人目の妻 糸をもらい受けに鹿児島まで行く前日に宿泊
1867年 鳥羽伏見の戦に出兵
1868年 戊辰戦争  奥羽援兵分隊長
西郷大将と会津若松城を攻め落とした際、城郭の近くに稲荷大明神の詞があり、火が燃え
移って焼失した。稲荷様はわが家の氏神なので、申し訳なく思い、帰ってから、そこの祠
にあった手鏡を自分の祠に手鏡を奉納し、祖先のご慰霊とともに安置し、子々孫々が毎年
11月3日に祭典信仰すべきものとした。
戊申の役では大変活躍したのだが、他の地区は8石加増などがあったが、この地区だけ加
増がなかったので、伊藤有徳らと地合わせて、賞典御願いを申し上げたところ、許可がな
かった。納得がいかないので、再度上申したところ、軍功2等があったとして,4番隊に
は5石の加増をする旨の触れがあった。7年後の明治7年になってからであった。
1874年 明治2年 藩の各諸役の任を解かれ、新たに、明治政府に常備隊と軍務局の
助役を命ぜられる。
1876年 明治4年57歳で退役した。